東海道53次の版画の復刻版

江戸時代より現代に至るまで、東海道53次の版画は復刻版が次々と出版されています。

イベントなどでも復刻版の55枚と現在の写真を一緒に展示するなど、東海道53次の版画は愛されつづけています。お値段も色々ですが、安藤広重東海道53次の版画を印刷したものを額とセットにしたもので2万円ほどなど、印刷したものであれば割とリーズナブルな価格で販売されていることもあるようです。

ただし印刷ではなく版画で、彫師、摺師が重要民族文化財保存技術者である場合などは一枚で八千円~1万5千円と値段はぐっと上がります。

東海道53次の版画の版元

安藤広重の作品でもっとも有名で人気があり、かつもっとも高い評価を得ているのは最初の東海道53次の版画です。最初の、というのは、実は人気があったために東海道53次のリクエストが相次ぎ、安藤広重は何度にも渡って東海道五十三次を描いているのです。ですがやはり一番はその一番最初の東海道53次の版画であり、版元が保永堂というところだったことから、版元の名前で区別して「保永堂版東海道五十三次」と呼ばれています。

時代が先の葛飾北斎による東海道53次の版画も非常に高く評価されたものであり、同じモチーフです。北斎と安藤広重までの間にも、いくつもの東海道53次の版画は出されているのですが、北斎の次に大当たりしたのは広重の保永堂版東海道五十三次でした。

北斎は、安藤広重と異なり何度も描いた東海道五十三次は最初よりも腕が上がり人気も高まっていますが、安藤広重は一番最初の版元、保永堂版東海道五十三次を超える作品にはならなかったため、この点で北斎と安藤広重を比較研究されることも多いようです。

東海道53次の版画と安藤広重

浮世絵師・安藤広重は寛政9年(1797年)、江戸に生まれました。幼いうちに両親を失った安藤広重は17歳の時に絵の師である歌川豊広から「広重」の号を授かったため、絵師としての彼は本来「歌川広重」とも呼ぶのが正式なのですが、現代では安藤広重の名前で広く知られています。

天保元年(1830年)には一幽斎廣重、さらに天保三年(1832年)に一立齋と号を改めた広重は、この天保三年に京に上洛し、翌天保4年に大傑作といわれる東海道五十三次を生みだしました。この東海道五十三次には当時珍しい遠近法が用いられるなど画期的な浮世絵であり、さらにはその青、藍の美しさにヨーロッパでの評価が非常に高く、「ヒロシゲブルー」とまで呼ばれるほど。のちにアールヌーボーの画家達に流行したジャポニズムに強く影響を与えたのが安藤広重であるといわれます。

安藤広重は安政5年(1858年)62歳で病没しましたが、その後ももちろん国内でもその評価は高く、人気もあったため東海道53次の版画は広く流通しました。

2010年07月28日の良い言葉
人生のバッターボックスに立ったら、見送りの三振だけはするなよ。by小林茂
22時03分09秒更新